« 日本有数の花見会場 | メイン | 散り際の桜吹雪 »
2006年4月 3日
古都の醍醐味
「早春の京都写真人気投票」へ投票してくださった方々、ありがとうございました。この企画は「もし誰もコメントしてくれなかったらどうしよう?」と、すごく不安だったのですが、そんな不安をよそになんと12人もの方々から投票をいただくことができました。
さてさて、本題に入り投票結果の発表です。みなさんに選んでいただいた写真を集計してみました。その結果は以下のようになりました!
1位 写真番号07 6票 高台寺
2位 写真番号18 5票 清水寺
3位 写真番号16 4票 産寧坂
3位 写真番号24 4票 祇園新町
ということで、今日の写真は「高台寺」です。この高台寺は豊臣秀吉の妻「ねね」が秀吉の菩提を弔うために建てられた寺なのです。ねねは秀吉と結婚した後「北政所」と呼ばれるようになり、秀吉の死後に後陽成天皇から「高台院」という名前を与えられています。その高台院が住む場所ということで「高台寺」と名付けられたわけです。ちなみに正式名称は「鷲峰山高台寿聖禅寺」と言います。
今回僕はこの寺を初めて訪れたのですが、想像以上にキレイな雰囲気に最初はちょっと不安を感じました。というのも、この手の寺はキレイだということは新しいということ。新しいとイマイチ趣が感じられない場合があるのですよ。でもまぁ、冷静に考えてみたら京都って1200年以上の歴史があるわけですからね。そんな中で400年前にできたこの寺が新しく感じられても不思議はないわけです。そもそもどんなに歴史のある寺でも京都にある限り、応仁の乱やら何やらで多少なりとも消失しちゃってて、だいたいは室町時代や江戸時代に再建されたものだったりしますしね。高台寺も例にもれず何度か戦禍を被り、いくつかの建物が焼かれ、そして再建されているらしいです。ただ、再建とは言っても江戸時代のことなので、それはそれなりに古い建物ではあるようです。
この写真は高台寺の中の「方丈」と呼ばれる建物から庭園側を見たものです。奥には細かい枝がついている木がありますが、あれは「しだれ桜」です。桜が満開の時期に訪れたらさぞかしキレイだろうと予想されます。
僕は京都で寺めぐりをするとき、よくこの手の写真を撮影します。「手前に回廊があって、奥に何かが見える」というシチュエーションが好きなのです。同様のシチュエーションで大小限らず「門」が好きで、そういう写真もよく撮影します。要するに何が好きかって、回廊なり門なりはメインである庭園や仏像などへ僕らを誘ってくれる場所じゃないですか。回廊を歩いて進む、もしくは門をくぐることによってパーッと目の前が開け、想像を絶するぐらい素晴らしい光景が目に飛び込んでくるのです。このときの爽快感はたまらないものがあります。そんな感覚へ自分を誘ってくれるというドキドキ感を与えてくれるのが「回廊」であり「門」だと僕は思うのです。イヤ、知りませんよ、ホントのことは。もしかしたら実際は何かしらちゃんとした設計思想みたいなものがあるのかもしれませんが、そんなことはさておき、自分のフィーリングとしてはメインのものに向かっていく高揚感をあおってくれる存在なのです。そういう気持ちを表現したくて、この手の写真をよく撮影しています。
ところでみなさん、古都めぐりの醍醐味って何だと思います?といっても人それぞれ見方があるので、一概には言えないといころがありますが、僕にとっては「歴史を味わう」ことなのです。歴史って言っても「豊臣秀吉とねねが...」なんていう教科書的なものじゃないのです。寺社仏閣のような古くからある建物は、それなりに昔から多くの人たちがその中を歩き回っていろんな景色を見て、いろんなことを感じているじゃないですか。例えば写真に写っているこの場所だと、短めの回廊を歩き、角にたどり着くと白砂と苔によって形作られた見事な庭園が目に飛び込んできます。これまで想像もできないぐらいの人たちがこの光景を見てきたわけです。そんな昔の人たちが目にしたものと同じものを400年もの年月を飛び越え、今僕が目にすることができるのです。その当時この場所を歩いた人は何を思い、何を感じていたのか。そんなことに思いを馳せながら、当時と同じ回廊を歩く、そういう体験に限りない「喜び」と同時に「感動」すらおぼえます。
人によっては訪れる場所の歴史を知った上で目にすることでより理解が深まるという方がいるかもしれませんが、僕にとってはむしろ事前の知識はジャマなのです。例えば高台寺の場合「ねね」の話を知った上で寺の中を歩き回ると「かつてねねもこの場所を歩いていたのかもしれない...」なんて思うわけです。そうすると、その時点で僕は一種の客体になっているわけです。いち観光客の目線で寺を見てしまっていることになるのです。だったらむしろ何も知らずに歩き回った方がより深く建物の雰囲気を味わうことができます。何も知らない状態で寺を歩くことで自ら主体として、寺院建立から今にいたる長い歴史と伝統にその身をやつし、寺の印象を身体全体で感じることができるような気がするのです。こういった場所は高台寺に限らないのですよ。京都には無数に寺社仏閣がありますし、街並みなんかも古いものがそのまま残ったりしています。そういう歴史をそこかしこで感じることができる京都という街はすごく貴重な場所だと思うのです。
それでは約束通り、この写真をテーマに和歌を一首詠みます。
「見ゆれば蕾ほぐれぬ枝あまた幾星霜の想ゐ積もれり」
(まみゆれば つぼみほぐれぬ えだあまた いくせいそうの おもいつもれり)
【解説】
しだれ桜をよくよく見てみると、やたら細かく枝があるにも関わらず、つぼみが開いてくれそうな気配が全く感じられない。400年もの長きにわたってこの地で見事な花を咲かせてきた桜のことだから、これまでものすごく多くの人たちからその開花を待ちわびられていたことだろう。そんな数限りない人々の開花への期待、ひいては春を待ちわびる切なる想いがつぼみに降り積もってしまって、開花したくてもつぼみが開かなくなってしまっているのではないだろうか。
要するに写真に写っている桜をネタに「昔からこの場所で多くの人がいろんな想いを抱きながら過ごしてきた」ということを描きたかったわけです。いかがでしょう?ホントは長歌のつもりで「和歌」と言っていたのですが、試しに作ってみたらやたらと「くどい」感じになってしまいました。ただ、さすがに俳句ぐらい短くなってしまうと深い意味まで語れそうになかったので、やはりここは日本人になじみの深い「短歌」の形式でまとまてみました。この歌は字余りなしの五七五七七で、スタンダードな三区切れです。できれば枕詞を入れてみたかったのですが、そんなことやってたらいくら字数があっても足りないのでやめました。試しに掛詞を入れてみたのですが、単なるオヤジギャグっぽくなったのでそれもやめました。ということで完成したのがこの歌です。
この週末、東京では桜が満開でしたよね。ホントはわざわざ足を伸ばして京都まで行きたかったのですが、お金もないし時間もないので残念ながら今年は断念せざるをえませんでした。でも何年後になるかわかりませんが、いつの日か京都で桜を愛でる機会を持ってみたいものです。数年後といっても1200年もの昔から存在する街ですから、1年や2年の違いなんて誤差のうちです。何年か後に訪れても、おそらく今と変わらない素晴らしい桜を見ることができるでしょう。
アップロード日時 : 2006年4月 3日 00:01 撮影場所 : [ 京都 ]
地図
撮影詳細情報
撮影情報 | |
---|---|
撮影場所 | 高台寺 |
撮影日時 | 2006年3月21日 10:46 |
カメラ情報 | |
カメラ | Canon EOS 20D |
フォーマットサイズ | APS-C |
ISO感度 | 100 |
露出プログラム | 絞り優先AE |
露出補正 | -1/3EV |
露出時間 | 1/160秒 |
レンズ情報 | |
レンズ | EF24-70mm F2.8L USM |
焦点距離 | 43mm |
絞り | f/3.2 |